裏GOODDAYS 日々の随想

こちらは日々の随想を吐き出している裏ページです

トイレの作法と流儀

トイレで大きいほうをする前に俺は必ずトイレットペーパーで便座を拭くのだが、俺と同じことをやっている人の割合が多かったらかなりの量の資源を無駄にしていることになるだろうと嘆きつつもおいそれとやめるわけにはいかない。
特に夏などは、おっさんの尻の汗が便座に付着している割合が他の季節よりも高いだろうにと思うと、便座をぬぐう掌にも力が入ろうというものである。

大抵の男にとっては外出先での排出のほとんどは小だと思われるので、俺と同じことをするのが男だけならばそこまで資源が無駄になることもないと思うが、女性も同じだとしたらえらいことになる。
多くの女性にとっては、おっさんとお尻合いになるのは勘弁だろうが、女性同士なら仕方ないと思って拭かないでいてくれるとだいぶエコになるのではないかと思う。


ところで、中国人の洋式便器嫌いは筋金入りである。
もちろん、洋式便器の上にまたがる猛者がいるぐらいなので、それが嫌というのならわかるが、そもそもお尻合いになるのが嫌だから上にまたがるわけで、ある意味、中国人は尻の肌においては欧米人や日本人よりも潔癖かもしれない。
昨年、俺がチベット青蔵鉄道で標高5,000メートルの峠に差し掛かる前に猛烈な高山病にかかって、何故かその症状が嘔吐と下痢で、それこそ10回以上もトイレに行ったのだが、糞便と吐しゃ物まみれの阿鼻叫喚の和式トイレには常に人が入っていて、身障者も入れるサイズの広い洋式トイレは常に空いていた。
中国人がいくら心が広いかもしれないとはいえ、高山病による嘔吐やトイレ(もちろん高山病になったのは俺だけではないので)を我慢してまで身障者もしくは俺のためにトイレを空けるほどではないと思うので、彼ら彼女らは純粋にあのだだっ広い洋式トイレが嫌で嫌で仕方なかったのだと思う。
おかげで俺は便意と吐き気を催すたびに全く待たずにすっとトイレに入ることができ、地獄のなかに天国を見たのである。
「もしかして、洋式トイレを開けることができるのは俺だけ?」と思うぐらいのフリーパス状態、かつ、ティッシュを入れるゴミ箱以外は洋式トイレは終始吐しゃ物等による阿鼻叫喚状態を免れたので、俺はこのフリーパス状態とアルコール入りウエットティッシュを大量に持ち合わせていたことを「青蔵鉄道の奇跡」と自分の中で勝手に呼んでいる。

話は変わり、俺は何があってもくしゃみはハンカチの裏面内(「表は浄の面、裏は不浄の面」と呼んでいる)にするようにして、ハンカチの裏面を構えられない時にはくしゃみをかみ殺してキャンセルするようにしているのだが、そんな俺はくしゃみを平然と手で受け止める人のことがちょっと信じられない。
傍から見たら俺が動揺しているようには見えなくても、心の中では「えええっ!」って思っている。
まあ、嫁に言わせれば、いざとなった際に、くしゃみをキャンセルできる奴のほうが少ないらしいし、多くの人は俺のように口の中が常によだれでダラダラしていないようでくしゃみをしても唾は出ないらしいが、それって口の中が渇いているということなのかと不思議に思う。

ついでにいうと、俺は紙巻器がカランコロンとなる音も苦手である。
「俺は今から尻を拭くためにトイレットペーパーをカランコロンとかき鳴らしているぜ!」と主張しているかのごとくガラガラガラガラとさせるお方もいるのだが、あれは無粋極まりない。
屁の音のほうがまだ小粋なぐらいである。
無粋が苦手な俺は基本的に紙巻き器を上にあげて巻いて、切るときはミシン目通りにきれいにもげるよう丁寧に引っ張るようにしている。

屁の音で思い出したが、2ちゃんのまとめサイトで「排泄音を都市名で表すと?」というようなお題があって、「ニュルンベルク」だとか「ブリスベン」だとか色々と挙げられていて、「ふーん」と思いながら見ていたのだが、何故か…


と書いてあるシブい書き込みを見た時に息ができなくなった。

俺が結婚前に嫁とつき合い始めた頃、俺がトイレで行っている一つ一つ所作、例えば、トイレットペーパーの効果的ななめし方、理想的なウンチングスタイルと角度(座り方の心得)などについて30項目ぐらいに因数分解をしてテクニックとその意味合いについて事細かに講釈を垂れたことがあって、「それだけ道として極めているのなら文章にでもすればいいのに」と感心され、当然、俺もまんざらでもない気分になったのだが、ふと我に返り、「たわけ!糞縄や糞ベラで生きられる猛者が語るのならともかく、ウォシュレットがないと生きられない、しかも腹が弱いから営業職ができず、デスクワークしか選べない弱者があれこれ能書きを垂れて良いと思うほど俺は恥知らずではないわ~!」と返したことがあった。

この歳になっても風呂上りに股間にベビーパウダーをまぶして悦に浸る俺のような弱者が何も語ってはいけないということがわからないほど分別がないわけではないのである。